イソップのメモ帳

イソップが見たり聞いたりして考えたことの記録

過去から未来までの「WATCHA○○参加者」へ

WATCHA○○参加者へ
めちゃくちゃデカいタイトルですね。これまでの参加者の皆様。これからの参加者の皆様。自分が感じていること,Twitter上でのやりとりを拝見して,これを書くに至りました。ご笑覧いただければ幸いです。

 

言いたいことは3つです。

・「イベントに参加する」だけで終わらせない。

・ 登壇者は間違いなく成果を残しているが,神にしない。

 ・リアルな現場を変えたいのなら,公式の場で発信する。

 

 

我々はイベントで獲得したことを,現場に還元できた時こそ誇るべきである

参加しただけで満足してしまう人,WATCHAすげー・登壇者すげーで終わってしまう人たちへ。
WATCHAが3日連続で開催された今週。ツイッターを見ると…
「登壇者凄かったな~」
「WATCHA楽しかった~」
「参加できてよかった~」などの感想が…いや,ほんとその通りだと思います!!でも,我々はWATCHAを含めた様々なイベントに参加したことやそのムーブメントに便乗したことを誇るのではなく,それらへの参加によって獲得した視点,学び,違和感から,教室や目の前の子どもたち,あるいは自分自身に何かを還元することができたことを誇ろう。

 

登壇者をどのように捉えるかは,イベント参加者の自由である。

登壇者をどのように捉えるかは,参加者の姿勢やニーズ,運営側の場の作り方によっても変わると考える。例えばWATCHAでは,ツイッターでフォロワー数の多い人が登壇者になることが多い。これはある種,有名人を呼ぶということであるが,この場合,有名人は何らかの意志をもち,多くの人の共感を得るような成果を出している。ただフォロワーが多いだけではないはずなのだ。だから運営側が,「共感者が多い人を登壇者として迎えることができれば,集客にもつながるし,より多くの参加者の満足度を上げられる可能性が高い」と考え,有名人を呼ぶのは当然のことではないだろうか。

しかし例えば,登壇したから偉い,登壇していないから偉くないと捉える人もいる。現に,会場では登壇者を神格化するように扱うこともあるだろうが,それは一種のパフォーマンスに過ぎない。運営スタッフとしては,例えで出したような考えをしていないように思う。では,誰がその雰囲気を作っているのか。それは,参加者だ。フォロワーにとって,登壇者たちは憧れの存在であり,スターなのだ。これ自体は悪ではない。しかし,これが違和感を抱かれる理由なのだと思う。

参加者自身が,受動的学習者として参加してしまえば,そこには自動的に,必然的に上下関係のようなものが生じてしまう。
だから,WATCHAというイベントが悪いのではない,参加者一人一人の姿勢がそういった違和感がでるような場を作り上げていることを忘れてはならない。

それでは,違和感を感じた人はどうすればいいのか。会場に,周囲に同調するか,しないか。それは自分自身で決めればよいのだ。違和感を感じた人が,他の人の学びの姿勢について,とやかく言う権利はない。自分がそうなりたくないのであれば,そうならなければいいし,イベントが嫌ならば参加しない選択をすればよい。でも一度考えて欲しい。自分が運営の立場だったらどうするか。多様な参加者がいる場をいかに盛り上げるか。これは難しい問題だと思う。しかし運営側も,もっともっとフラットな場づくりを心がけると「登壇者の神格化」のような違和感を感じる人は,少なくなるのではないかと思っている。

 

獲得した成果を現実世界で広げていく。

WATCHAに関するムーブメントは1年間で,ネット上では多くの人々を動かしている。そして,WATCHAに参加する人は,いわゆる意識高い系,少なくとも現状に対して課題意識がある人だ。しかし,そんな人々が多数関わっていながら,現実世界,現実の学校現場ではどうか?何かが変わっただろうか?なぜ現実の世界は変わらないのか。
それは,このムーブメントがあくまでネット上での話に過ぎないからだ。ネット上のムーブメントは,非公式の話である。教育委員会や校長に報告され,公教育の場全体に成果が共有されるわけでもなく,ネットにアクセスし,何かを獲得しようする人々の間だけで情報が共有されている。これでは学校は変わらない。
ネット上のようなムーブメントを現実世界でも起こすにはどうするか。そう,それは現実世界で公式の場で発信をするのである。教員であれば,WATCHAというイベントにこだわらなくとも,授業研究会や指導主事訪問など公的に外部に発信する手段はあるはずである。WATCHAでやっていること,獲得したことを参加者が現実世界で同じように発信していけば,情報が共有され,現実世界も劇的に変化していくのではないだろうか。そして,ネットにアクセスできない,しようとしない人々にも,発信を届けることができるのではないだろうか。

 

何かを伝えたい世界があるのなら,その世界で発信をしなければ意味がないのではないだろうか。